マニュアルは本当に必要か?日本に伝わる「見て覚える」の真意

マニュアル全盛の昨今、業務を円滑に進めるため欠かせないものである反面、潜在的なパフォーマンスを発揮する機会を失っているかもしれない……という危惧もあります。古来、日本に伝わる考え方と照らしあわせて考えてみましょう。
「見て覚えろ!」は、乱暴な教え方か
現在は、海外への事業展開も当たり前となり、製品やサービスの質を一定に担保するため、あるいは、多くの人材を同時に育成するためマニュアルはさまざまな場面で生かされています。ただ、マニュアル文化が入ってくる以前の日本では仕事は見て覚えるものではなかったでしょうか。

「そんな古い考えでは若い人材を育てることなんて難しい」と思われるかもしれません。しかし、“見て覚える”の本質は決して乱暴でも無責任なものでもなく、むしろそれぞれの力を内側から伸ばす原動力となりうるのです。
教義のない神社(神道)、ゴールのない日本伝統文化
例えば、神社に参拝する際の「正式な型」というのは厳密にはありません。何をどう願えばいいのかなどの決まりもありません。そもそも、神道には明文化された教義というものがないのです。
また、日本の伝統文化である茶道や華道、剣道などにも型はありますがそれを覚えたからといって終わりではありません。むしろ型を身につけたところからがスタートといえるでしょう。道を極めるのにゴールはないものです。

ここでいう型が今でいうところのマニュアルであり、先人が言語化せずに伝え続けてきた型だからこそ見て覚えるものだったのではないでしょうか。
言語化しなかったことで、「これが正しい」「誤っている」というはっきりとした概念がない寛容性も特徴です。周りの人たちがやっている様子を見て、やって、合わせてみることで身につけていくものだったはずです。
マニュアル通りではなくそこから感じ取り、経験値とする
マニュアルに慣れてしまうと、明文化されたものがなかったり、逐一言語化されたものがなかったりすると行動につなげられないという弊害も起きてしまいます。
また、マニュアルや見て覚えた型もただ知っていればいい、その通りに繰り返せばいいというものではありません。自分なりに感じ取り内観し、行動や考え方を磨き続けていかなければなりません。
先人や目の前にいる先輩のレベルに達するにはどうしたらよいか。今の自分との差分をしっかりと見極め、何が足りないのか、足りないものがあれば今できることは何なのかと考え行動する。
もちろん失敗もします。それでいいのです。自分が感じ、外に発するものに正誤はありません。工夫しながら繰り返していくことにこそ意味があります。

失敗や成功を繰り返すうちに、次第に自分自身の経験値が上がり、それを自ら言語化することにより、自分なりのマニュアルが組みあがっていくでしょう。
当然、新しい状況に置かれれば、過去のマニュアルでは対処できない事態も起こります。それでも、ひとつのケースを乗り越えてきたという事実は大きな自信につながります。「あの事例も乗り越えられたのだから今回も大丈夫」と臨機応変に対応することができるはずです。

ゴールが見えてもまた新たな壁にぶつかりそれを乗り越えていくという繰り返し……この循環こそが、メールマガジンのタイトルにもなっているとこわか(常若) の意味にも通じてくるのです。
とどまることなく循環し、ビジネスの荒波を乗り越えるタフさをどんどん身につけていってください。
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人生はフルマラソン。経営はその一区間です。 長距離だからこそ、適切な緩急が大切ですね。Twitterでも歴史、神社、史跡を題材に経営力を高めるためのヒントをつぶやいています。